誰かのためじゃなく自分のために

研究室から抜け出してメディアセンターのパソコンを使っています。研究は当然のように面白くない。しかも、研究室にいると体調が悪くなるような気がする。

過去を振り返らないと決めても、どうしても過去を振り返り、後悔してしまうのが人の性。

かつて地理や歴史が好きで、文学部を目指していた自分がなぜ化学なんてやるようになったのか。
確かに化学に興味はあった。世の中の多くの物質がわずかな元素で構成されているという事実は好奇心をかきたてるものであった。

しかし、自分が文系で大学に入ったのに化学をやるようになったのは、化学に興味があった以上のものが大きかった。
それは「自分だけの道を歩きたい」という欲求だ。そして、そのためには奇抜なことをしなきゃならないと思っていた。

文系から理系へと変わる「理転」は非常に難しいといわれている。そして、文系学部から理系学部へ転学部することもまず不可能であるらしい。うちの大学でもそうのような気がする。
そのような難しいことを自分がやってのけるということが「自分だけの道を歩く」ということだと思っていた。まるで自分が未踏の地へ足を踏み入れる冒険者のようだと思っていたのだろう。

そして、化学をやれば有名になれて名誉や金が手に入ると思っていた。当時は白川英樹野依良治田中耕一ノーベル化学賞受賞者が3年連続で出ていたしね。高校まで文系であった自分がノーベル化学賞をとったら自分のことを知る人は驚くに違いない。ノーベル賞を取れないまでももし自分が化学界で発見をし、ニュースになるようなことがあったら、自分を知る人は驚くだろうと思っていた。
地理学や社会学歴史学を専攻したところで金にはならんし、就職にも有利ではない。化学をやれば研究職への就職も可能で、将来へとつながると思っていた。

あと、文学部から総合人間学部へ志望を変えたわけだから、文系のことをやっては志望を変えた意味がないと思った。

こうして、私は化学を専攻することになった。

「自分だけの道を歩く」ということをより大きく達成するために理科の教員免許取得のための授業を取った。文系だった自分が理科で教員免許を取っているなんて驚きの事実で革命的だと勝手に思っていたあのころ。
さらに、理系としての道を確かにするため、国家公務員1種の理工系職を受験しようかとも考えていた。
このようにして自分は道を作っていこうとしていた。


しかし、この道は長く続くものではなかった。
名誉や金、他人からの評価、そのようなものがスタートであったため、自分を支える情熱がそこにはなかった。
自分は単位をとるために理系科目の授業を履修し、勉強していた。しかし、その第一の動機は「自分だけの道を歩いている」ということから来る満足感で、学問そのものに強い関心を持っていたわけではなかったように思える。しかし、そんなことを当時気づくはずもない。

4回生になって卒業研究が始まった。もう単位は取り揃えているので、授業に出る必要はない。
そして、ここにきて自分の道は行き止まりへとぶち当たってしまったのだ。

化学で特に研究をしたいことがない。

環境分析の研究室に入ったわけだが、自分の頭にあるのは人為的な環境変異とか生活の変化、社会の変化とかそういうものばかりであり、バリバリの化学の研究をしようという意思はなかった。

そして、教育実習が自分に追い討ちをかける。

自分には化学の知識がない。

授業を受けて単位はとってきたはずである。しかし、化学の知識が自分の頭には残っていなかった。これは自分が化学にそれほど興味がなかったということの何よりの証だろう。


絶望した自分は取り返すことのできないこの3年余りを悔いた。そして、自分がいとも簡単に好きなものを投げ捨ててしまったということにようやく気づいた。

まっとうに人生を歩もうとしなかった自分に対して天はようやく罰を下したのだ。


好きなものをとことんやるということが何よりも楽しいということを自分はなぜわからなかったのだろうか。そして、自分の道というものは無理やりに作り上げるものではなく、自分という人間が生きていく中で作られるものなのだ。
変に格好つけようとしても無駄。そんなものはいつか破綻する。



幸い、化学から興味が離れるのが院試まで時間のあるときだったため、化学で大学院に行くことはなくなった。九死に一生を得たというのはまさにこのことである。
そして、自然地理学、環境評価学の大学院へ進学することになった。まだ理系色は残るものの、ここでなら自分のやりたい事ができそうだと今は思っている。
自分のやりたいことができなかった人間は、やりたいことができるときになればものすごい力を発揮するらしい。少しでも希望が残っている限り、自分は生きていけるはずだ。

大学生活の失敗はどうしようもない。卒業研究もやらなければならない。もう化学に何かを期待したり、やる気を起こしたりするようなことは無理だ。人間として、生きるということにおいて大切なことを忘れてしまった自分に、人として楽しく生きていくため大切ことを気づかせてくれたことへの高い授業料だと思ってやるしかないのだ。

これから先の人生、自分のやりたいことばかりができるわけじゃない。でも、自分が「好き」というものを大事にして生きていく、それだけは忘れないようにしたい。変に格好つけようったってそんなことは無理なのだから。
さて、研究室へ戻るか。